SH Diary.

旅行記、ときどき野球。

母親が亡くなった


2月半ば

母は数年前に乳がんを患っていた。2度ほど腫瘍を切除したのだが、昨秋の2度目の手術以降「手術痕がうずく」とほぼ毎日クリニックへ消毒へ行く日が続いていた。

ところが母はその持ち前の性格上、唯一の同居している家族である自分にすら詳細な病状を伝えなかった。「乳がんを患った」ことはさすがに聞いたが、それがどんな病状でどんな治療を受けているのか、聞いても「たいしたことではない」の一点張りだった。

そんな中、ある日仕事中に着けていたスマートウォッチが激しく震えるので見ると、母から「しんどいので夕飯を外で食べてきてください」というLINEが入っていた。すわインフルかコロナか、と大慌てで仕事を切り上げて帰宅すると、感染症のしんどさではなく、食事が取れないという様子だった。

結局「心臓に水が溜まっている」という状況だったらしく、1週間ほど入院して戻ってきた。しかし母の口から「しんどい」という言葉を聞いたのは自分が生まれた33年間でこれが初めてだった気がする。このへんから「おや?」ということが増えていった。
 

3月頭

心臓の水を抜いて退院した約10日後、朝仕事に出ようとしたら「息苦しい」と母が訴える。本人曰く「肺に水が溜まっているかもしれない」とのこと。仕事を休み病院へ同行しようとするが、仕事は行けと母が聞かないので結局仕事へ行く。その後数日入院。

ちなみにこのときの入院先が、2月に入院したときと別病院だと知ったのは、母が退院する前日のことだった。
 

3月半ば

退院したのですっかりよくなったものと思い、許可も得て北陸方面へ出かけて帰ってきた夜、見慣れない機械が置いてあった。よく見ると「酸素」の2文字が書いてある。「あったほうが安心やろって先生が言ってた」と母は言うのだが、その翌日からこの酸素が手放せなくなった。

このあたりからたとえばお手洗いなど、少し動いただけで息切れが激しくなるようになった。息も絶え絶えなのに、それでも母はシンクに置きっぱなしにしていた自分が使った食器類を洗おうとした。止めても「自分がやる」と聞かないが、無理やり交代する。

食器洗いをするだけで息切れが激しいにも関わらず、心配をすると弱いところを見せたくない母はそれでも「たいそうなことではない」と嫌がった。傍から見ればどう考えても「たいそうなこと」なのに、母はそういう人だった。

あまりにも母が嫌がるので誰かに病状を伝えるということも難しく、仕事をして家に帰ったら酸素が手放せない母がいるのにそれを外に発することができないのは相当にしんどかった。
 

3/16

母が病状の説明を聞きに行くと言うので同行することにした。タクシーを配車しそろそろ家を出るか、と思ったその時、着替えようとして息切れが激しくなり座椅子に倒れ込む母の姿があった。

救急車を呼ぼうとしたが本人が激しく嫌がった。そもそも病状を聞きに行く先は大病院だと思っていたら、かかりつけのクリニックだと知ったのもこのときだった。タクシーには帰ってもらい、僕ひとりでクリニックへ状態を聞きに行き、そこですべてを知った。

何も言わなかった母の先は、もう長くなかった。

「可能ならすぐ入院させたい」と伝えたところ、週明けすぐに大病院へ入院できるように整えてくださった。帰宅すると「動かなければ大丈夫」という本人の言葉通り、先ほどよりかは呼吸が落ち着いた母がいた。明後日から入院してもらうことを伝える。はじめて僕の判断で入院の手続きをした。

この日母は、夜更けまで録画していたジブリ映画を片っ端から観ていた。その裏で僕は流石にもう言わなきゃいけないと、母の秘密裏に親族に連絡を取り病状を説明した。親族は絶句していた。
 

3/18

前の夜、「もしかしたら、母がこの家で過ごす最後の夜かもしれない」とは思っていた。とはいえここ数年は仲が悪いわけではないが家庭内別居のような感じで母子2人暮らしをしていたので、あえて「最後の夜かもしれない」夜も普段通り過ごして朝を迎えた。

クリニックにも救急車を躊躇なく呼んでいいと言われていたので、16日と同じことが起こればたとえ母本人が嫌がっても救急車に乗せようと思っていたが、この日は着替えを止めたからか玄関までたどり着けたためそのまま配車したタクシーで移動。少し冷たい風が吹くよく晴れた朝だった。

病院内は車椅子で移動し、主治医、母、僕の三者面談では「なんとかもう1回、家に戻れるよう頑張りましょう」という結論に落ちた。でもその後、僕と主治医の二者面談で、「正直、今朝家を出たのがもう最後だと思っています」と僕が言うと、主治医もおおかたそれに同意した。

実はこの日、別の親族が軽い手術を受けると聞いていたのだが、それを母には言わなかった。ところが三者面談でうっかり口を滑らせてから、息も絶え絶えな母はそれでもその親族のことを心配していた。「心配してる場合ちゃうやろ」と軽く諌め、入院生活がはじまった。

帰宅すると、居間のテーブルに前夜母が食べ残した冷凍の唐揚げがひとつだけ残されていた。もう片付ける人間は自分しかいないのだが、これを片付ける気になれずに1週間近くそのままにしてしまった。
 

3/19-27

入院直前に母にスマホのパスワードを聞き出せたので、母の知人友人にLINEで病状と僕の連絡先をつけて送信する。みな一様に絶句されていた。その流れで、母は数多のセカンドオピニオンのすすめや大学病院での検診の誘いをすべて断っていたことを知った。

一方で面会のほうは「1度に2人まで、二親等内の親族のみ」という非常に厳しい制限がついていた。ほぼ毎日親族の誰かしらが面会に駆けつけてくれたが、何度も病院に掛け合ったものの母の知人友人の面会の依頼をすべて断らざるを得なかったのが心苦しかった。

最初のころはまだなんとか会話が成り立っていたが、日が経つにつれ重い鎮痛剤を投与し続けたせいか会話もしんどくなっていた。母は僕の影響で「水曜どうでしょう」が大好きだったが、DVDの続きが全く再生されてないことに気がついたので、面会のたび眠る母に聞かせるように再生した。

母の思惑として「人に迷惑をかけたくない」というものがあった。救急車もサイレンを鳴らせば近所迷惑になる、というのが激しく嫌がったひとつの要因だった。3月頭に入院したときも「仕事は行け」と言ったのも僕の仕事先に迷惑をかけたくないという一心だったんだろうと思う。

そんなこともあって母が入院してからもなるべく出勤はしたが、デスクを離れている間にも何か病院から電話が来てるんじゃないかとそわそわしてまったく仕事にならなかった。入院前からのこの3週間がメンタル的にも一番キツい時期だった。
 

3/28

伯母が面会にいくというので、それに合わせて仕事を2時間早く切り上げ病院へ向かった。すると病室に入ってすぐ主治医が現れて、もういつ何があってもおかしくないと説明される。

フルーツ缶とシャーベットの夕食が運ばれたが、ついに手を付けることはなかった。ずっと口を開け、苦しそうな呼吸をしながら眠っている。数日前は冗談を返してくれる余裕もあったが、やはり限界まで鎮痛剤を投与しているため、ほぼ植物状態のような状況が続いている。

消灯時刻の21時になり、やや遠方から来てくれた伯母が「こんな(母の名前)さんを放って帰られへん」と病室の泊まり込みを希望したので、伯母に託して帰宅することにした(病室泊まり込みも許可を得た1人のみという制限があった)。傘を持っていないのに外は大雨だった。びしょ濡れで帰宅する。
 

3/29

前夜急きょ休暇を取った。泊まり込んだ伯母から「早めに病院に来たほうがいい」とLINEがあったので、朝一番から病室に入る。午前中は伯母に休んでもらい、引き続き「水曜どうでしょう」をDVDプレイヤーで流しっぱなしにしておく。

この朝から母は39度の発熱があり、痰が絡むような苦しそうな呼吸が続いていた。強い痛みを伴い本人が無意識に嫌がるため、痰を完全に吸い取るのはもはや無理な段階にあった。呼吸のたび顎が上がり、その時が近いことを感じさせる。母の呼吸と、大泉洋の陽気な笑い声が響く病室。

病院内のレストランで昼食を取って病室に戻ると、痰が絡むというより詰まっているような呼吸に変わっていた。従姉(母の姪)が来て病室に3人になったので僕が一旦外に出て、各所に電話をしているとキャッチホンの音がした。病室にいる従姉からだった。

「呼吸がかなり浅い」。

大慌てで病室に戻ると、さっきまで顎を上げるかのような母の呼吸がピタッと止まっていた。あれだけ「ああっ」という声を伴って必死に呼吸していたのに、こんなあっさりと呼吸が止まることがあるのだろうか。

担当看護師から臨終の説明を受ける。主治医が不在だったため、代わりの医師が瞳孔と脈を確認。正式に臨終が伝えられる。流しっぱなしのDVDプレイヤーでは、水曜どうでしょうの「四国八十八か所Ⅲ」12番焼山寺までの夜の山道の道中が流れていた。1番札所までたどり着くことはできなかった*1

「しんどいので夕飯を外で食べてきてください」というLINEが入って約1ヶ月半。まさかここまで早いとは、母を含め地球上の全人類誰もが思っていなかっただろう。
 

その後

結局これほど重かった母の病状を全部説明したのは僕の役割となった。この1ヶ月半で容態が急変し、しかも入院先も厳しい面会制限があったため、通夜葬儀はなるべく最後に顔を見てもらおうと広くお声がけしたら、斎場の椅子が足りなくなるほどの弔問があって驚いた。いや、母が一番驚いただろう。

咲き始めた桜に見守られ母は荼毘に付された。奇しくもその日は母の父(祖父)の誕生日だった。
 

母のこと

うちの父は8年前に亡くなっているので、33歳にして両親とも、しかもがんで亡くすことになるとは、まったく思ってもいなかった。ちなみに母の遺影は、父の遺影が撮影された同じ日に撮られたものを使用した。

繰り返しになるが、母は他人に弱みを見せたくなく、迷惑もかけたくないという人間だった。故に周囲から「とにかく明るい人」「あの(母の名前)さんが、なんで」と評される人物だったのだが、誰にも自分の口で自分の病状を語ることなく亡くなるという、そんな頑固な一面もあった。

何せ配送業者にも入院期間中の定期購入便のキャンセルを「身内に不幸があった」と嘘をついて断っていたぐらいである。なんでそこで嘘をつく必要があったのか疑問なのだが、逆に言えば母の「迷惑をかけたくない」というのはこれほどまでに徹底されているものだった。

もっとこうすれば、と思っていることは正直ない。あらゆるセカンドオピニオンを断っていた時点で、誰が何を言ってもこの結果を免れることはなかったと思う。そこは仕方がないと思っているが、悲しいと言うよりもものすごい空虚感に苛まれながら日々を生きている。

これを書いているのは自宅の自室だが、階段を降りて居間に降りれば母が『科捜研の女』を観ている気がしてならないし、いい時間になれば母が寝室の戸を閉める音がするはずだ。でももう、そんな音は聞こえない。朝7時に「シマエナガのうた」が居間から聞こえることも、もうない。

子どもの頃、両親祖父母の5人で暮らしたこの家も、ついに僕ひとりになってしまった。

この空虚感に慣れるのはいつのことになるのか、いやそもそも慣れることはあるのだろうか。


母は知らないところでこんな作品も遺していた

母が亡くなった日から約10日、年度末と年度始めをまたいだにも関わらず職場の理解もありずっと休暇を取っていたが、明日復帰します。どこまで働けるか自信ないけど。

*1:この企画だけ逆打ち、つまり88番札所からスタートしている