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SH Diary.

かつて不登校だったひとが野球や遠出、日常とたまにちょっとまじめなことを書いてます。

「その選択による結末を最終的に引き受けるのは誰?」という野球の観方

marines thought

最近話題の「アドラー心理学」に、課題の分離という考え方がある。

例えばここに勉強しない子どもがいたとする。そんな子どもに、親が「早く勉強しなさい」と言ったところで、勉強するのは親ではない。子どもである。同様に、働かない友人に「お前、とっとと働けよ」と言ったところで、働くのは自分ではなく友人である。

勉強しないことで何か不利益を被るのは親ではなく子どもだし、働かないことで不利益を被るのは友人である。冷たい書き方だが、それに対して他の人間に責務は無いというのが「課題の分離」なのだ。

その代わり、「援助」することはできる。勉強しない子どもには「数学が分からなかったらいつでも教えてあげるよ」というメッセージを送り、働かない友人には「この業種で働きたいなら、オレの知り合いの会社紹介するよ」と就職をあっせんすることもできる。でも、それを受けるかどうかはその人次第。

これをうまく例えた言葉に「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」というものがある。結局、喉が渇いていようがそうでなかろうが、水辺に馬を連れて行ってもそこの水を飲むか否かは連れて行った人間ではなく馬が判断することであって、人間が強引に飲ませることはできないのだ。

「勉強しない子ども」「働かない友人」の例以外にも、巷を騒がす不倫騒動とか、この考え方を当てはめるとものすごくシンプルかつ「自分にとってはどうでもいい」と思えてしまう。最近の世の中にはこの「課題の分離」をしなくちゃいけない事柄であふれまくっているような気がする。
 

この考えを、プロ野球観戦に当てはめてみる

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逆転の大チャンス、ファンの応援も過熱する中、ある選手があっさり三振したとしよう。このとき、責務を負うのは「選手」なのか「選手を応援していた人々」なのか、どちらだろうか。

ファンがいくら大声で「かっとばせー!○○!」と選手名も叫んだところで、ボールをかっ飛ばすのはファンではなく選手である。ここでファンが叫ぶという行為は、「選手が打つように声援を送る」という「援助」をしている、と考えることができる。なので責務を負うのは「選手」ということになる。

さらに、アドラー心理学では「他者の期待を満たすために生きることを否定している。よくプロ野球選手がホームランを打つと「ファンの期待に応えるために・・・」と言うけど、もしかするとそのホームラン1本で生活(年俸)が大きく変わるかもしれない訳で、実際には「自分のために」打っている、と言う考え方である。

つまり、僕たちファンは、生活が懸かる目の前の選手に声援と言う形で「援助」を送っているのだ、と考えると、別に贔屓の選手が三振しようがボコボコに打たれようが、僕が応援している千葉ロッテが酷い負けっぷりをしようが、なんとも思わなくなった。そういえば今年に入ってから野球で怒ったことがない気がする。

長らくサードを守っていた今江選手がロッテからFA宣言で退団するかどうかというころ、「ロッテからFAして活躍した選手いないけど大丈夫か?」などと勝手に警鐘を鳴らし、いざ退団が決まったら決まったで「落ち目の選手をうまいこと出した」などと都合よく解釈していた半年前の僕を一喝してやりたい気分だ。

だってFAでロッテを退団するか否かは僕が決めることじゃなくて今江がどうするかという問題なのだから。
 

「目の前の選手は、僕たちの期待に応えるためにプレーしている訳ではない」

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Twitterで試合中、誰かがボコボコに打たれると「お前明日から2軍行け」「これなら○○(違う投手)のほうがマシだ」と口々に言う人がいる。中には「選手に何か恨まれるようなことされたの?」と疑問に思うくらい、えらく汚い言葉で罵ったり誹謗中傷するファンもいる。確かに僕も観ていて不安になることは、ある。

でも、今年に入ってあらためてアドラー心理学を勉強して、「目の前の選手は、僕たちの期待に応えるためにプレーしている訳ではない」と思うようになった。

もちろん、結果を残せば嬉しい。良いところで角中がタイムリー打ったり、涌井がしっかり抑えてくれたり、岡田が横っ飛びでファインプレーを見せてくれたら僕も手を叩いて喜ぶ。でもそれって、僕らの期待に応えるためにプレーをしているのではなくて、あくまで自分のため、生活のため、家族のためのプレーなのだ。

先述したが、アドラー心理学では「他者の期待を満たすために生きることを否定している。別にそこで角中が三振したり、涌井が打たれたり、岡田がエラーしても、お前何やってんだよ!と期待に応えてくれなかったことを怒ってもどうしようもない。そこにファンが責任を負う理由も、選手に負わせる理由もない。

改めて思うと、こういう観方はある意味無責任なのかもしれない。でも、プロ野球にとどまらず、サッカーなども含めて、スポーツ観戦においてプレーでファンが負う責任って本来ないはずなのだ。勝手にプレーに怒って疲れたり周囲を不快にさせるよりかは、もっと気楽に前向きにスポーツ観戦を楽しむべきなのでは、と僕は思う。

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