SH Diary.

かつて不登校だったひとが野球や遠出、日常とたまにちょっとまじめなことを書いてます。

12年前、あの一言で命を救ってくれた恩師と、この春からいっしょに働きます―りっすんブログコンテスト〜わたしの転機〜

「お前がおったからこそ、こうして今があるんや。ホンマ感謝してるで」

騒がしい居酒屋の片隅で、ビール瓶を片手にそんなことを言われた僕は、大慌てで否定する。

「いや何おっしゃってるんですか、感謝しなきゃいけないのは僕のほうですよ、先生」

先日の記事にも書いたが、僕はこの春から教員として働き始めている。この日は懇親会。僕が着座しているテーブルに入れ替わり立ち替わり先生方が挨拶に来られ、その度に「頼むぞ!」と激励されて恐縮する。しかし僕はその激励が、なんだかすごく嬉しかった。

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忘れられない、高校1年の今ごろ。

僕は、引きこもっていた。日が暮れる度、大好きな野球中継にも目もくれず、ただただこのまま死を待つしかないとすら思っていた毎日だった。

中学3年間不登校だった僕は、せめて高校からはちゃんと毎日通おうと思ってとある全日制の高校を志願した。高校側も何度かの面談で不登校だった経歴のことはよく分かってくれていると思っていた。一度ひとりで学校見学をすると、その学校の教師たちは不登校だった子がひとりで!とえらく歓迎してくれた。

そして、見事合格。こうして不登校から脱却できるものだと思っていた。

しかし、それは大きな間違いだった。

入学式前のオリエンテーション。そこで僕が見たのは、諸手を挙げて歓迎してくれていた教師たちが「鬼」と化していたその姿だった。「君たちは高校生ですから」と言われてもまったく意味が分からなかった。もうすぐ、と言われるならまだしも、まだ3月なんだから身分は中学生のはずだ、と反論したくなった。

小さなことですぐ鬼、いや教師たちはすぐ怒鳴ってくる。この学校の方針は、とにかく「教師が扱いやすいように生徒を型にはめる」こと。つまり少しでもはみ出ようもんなら容赦なく叱りつけて型にはめ込もうとする。今思えばこんな方針は僕とは水と油、何ひとつ合っていなかった。

宿泊研修でコワモテの生徒指導教師がマイクを通して大声で怒鳴り、もはや恫喝としか思えないほどの説教を全学年の前でしたことがあった*1。僕が怒られたわけではないがその雰囲気に耐えられなくなって帰らせてくれと言うと、先生方は帰そうとはしてくれなかった。

2時間、研修先のホテルのロビーで泣きながら喧嘩した。普通のホテルなので通りがかる一般の宿泊客が僕に白い目を向けてくる。担任が「ダメだったら帰ってもいいから」というから渋々参加したのに話も全然違った。結局最後は校長まで出てきて帰らせてもらえることになったのだが、帰り際迷惑をかけたことを担任に謝ると、

謝るぐらいなら、最後までいろよ

とホテルまで迎えに来てくれた親の前でまた説教された*2。別に同級生とケンカしたわけでもない、120%教師側に理由がある集団行動からの離脱を、一番身近なはずの担任すら快く思っていなかった。あの「ダメだったら帰ってもいい」という妥協案は、最初からでまかせだったのだ。

そのことに気付いた瞬間、僕はもうこの世の中の大人という大人すべてに、信頼を置けなくなった。

再びの不登校、しかも中学のときと違って外に出る気力もない。研修の直前に買った定期券は、引きこもってから駅の本屋に出向いたただ1度だけしか使わなかった。食事もままならない。なにも手に付かない。ただただ、一点を見つめてぼーっとする生活。

不登校だった○○くん(僕)がひとりで来るなんて!」というあの歓迎はなんだったのか。結局ああやって僕を騙して、学校の入学者数を増やしたかっただけじゃないのか。教師という身近な大人に裏切られた15歳の僕は大いに傷ついた。そして信用できる大人なんて外にいないことを悟った。

いつのまにか桜も散り、毎晩眠れない日々が続いた。家の吹き抜けの壁に何度手をかけたか分からない。あと一歩乗り越えたら自分の身体が玄関に叩きつけられるところまで思いつめた日もあった。その先の未来に光なんてなんにもないと思っていた。

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「○○くん(僕)を、合格とします」

再びの不登校からひと月半。梅雨の日の狭い応接室で、僕はとても柔和なその言葉を受け取った。

きっかけは中学校のときに通っていたフリースクールだった。重度の引きこもりになっていると聞きつけたスタッフの人たちが、違う高校へ転入するという道があることを教えてくれた。試しに重い腰を上げて父と学校見学に行ったが、だからといって大人への信頼感を取り戻したわけではなかった。

よく来てくれました、と歓迎され、学校の様子やシステムを説明してもらったけど、どうせ入学したら入学したで鬼のようにどやされるものだと信じ切っていた。それでも、今のこの状況を脱却できる可能性があるのなら、と、僕は転入試験を受けた。

この試験最大のネックが、面接だった。僕は親戚に同年代がほとんどいない中育ったので、こういう大人への礼儀、マナーに関しては口酸っぱく叩き込まれている。そこの心配は要らないのだが、問題は「面接官を信頼できるかどうか」という点にあった。

この場で何を聞かれたのか。何を話したのか。実はさっぱり覚えていない。

もしここで、2人の面接官の先生が、いわゆる圧迫面接のように恫喝してきたら、たとえ合格だったとしても確実に後戻りできないほどの大人への失望感を抱いたに違いない。ただひとつ覚えているのは、「この大人2人だったら、ちょっとは心を開いてもいいのかな」と思ったこと。

面接後、狭い応接室で顔を突き合わせながら、2人の面接官の先生にとても柔和な声で「○○くん(僕)を、合格とします」と告げられた。今思えばその声は、僕に「信頼できる大人がほかにもたくさんいること」を教えてくれた、まさに大きな転機となる一言だった。

大げさでも何でもなく、僕はあの狭い応接室で、2人の先生に命を救ってもらったのだ。

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あれから12年。

「2人の面接官の先生」は、その後、波乱だった僕の高校生活を最後まできちんと支えて頂いた、まさに「恩師」と呼べる先生になった。卒業時に頂いた特別表彰の授与を伝えてくださったのもこの2人の先生だった。父が亡くなったと一報を入れると、翌日のお通夜に参列してくださった。本当に頭が上がらなかった。

そして、この春。

「お前がおったからこそ、こうして今があるんや。ホンマ感謝してるで」
「これから、教員として頼むぞ」

懇親会の席で、ビール瓶片手の2人の恩師に激励され、平身低頭になる僕。

「先生と教え子」の関係は、干支が一周りして「同僚の先生」という立場に変わった。

卒業してから、僕は「あんな先生になりたい」と教職の道を志した。紆余曲折あったがなんとか教員免許を取得した矢先に、そんな先生方といっしょに働くチャンスがあっさりとやってきた。こんなタイミングの良さがあっていいものなのか、と履歴書を書く手が震えた。

まだまだ職場でもご迷惑をおかけしてその度に凹むし、先生方も先生方で僕を「○○先生」と呼ぶことに慣れてないな~と思うこともある*3。でも、高校を出て10年近く、ずっと「いつかはこうなりたいな」と思っていた瞬間でもあるし、毎日充実している。

あのとき、「○○くん(僕)を、合格とします」と柔和に言われていなかったら、今ごろ僕はこの世の中にいただろうか。もしいたとしても、きっと世の中の人間という人間を信じきれず、とんでもない道の踏み外し方をしていたかもしれない。あらゆる危機を、あの柔和な一言で救われたのだ。

人生はいつ、どこで何が起こるか分からない。

#わたしの転機

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*1:このときの話です → チンピラ先生だった土橋先生(仮)の思い出

*2:傍らで耳にしていた親はこの説教が余程腹立ったらしく、後日クレームをつけていた

*3:高校時代はだいたい下の名前で呼ばれていました、っていうか今でもたまにそう呼ばれます

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