世の中のプロ野球選手は、大きく二分化することができる。
華々しくキャリアに幕を下ろすか、ひっそりとキャリアに幕を下ろすか。
あらゆる人々に愛され、親しまれ、大々的な引退セレモニーで幕を下ろす選手なんて、ほんの一握りしかいない。ある秋の日に呼び出され「お疲れさん」と解雇通告を受ける選手、すべての試合を終えてから引退を発表する選手。そんなふうにひっそり球界を去っていく選手のほうが、ずっとずっと多い。
9月25日、秋晴れのQVCマリンフィールド。ホームベースに設置されたマイクの前に立った「背番号3」は、最後にこう絶叫して挨拶を締めくくった。
こんな私ですが、22年間もの間、愛してくださって、本当にありがとうございました!
それをライトスタンド、白に染まる集団の真っ只中で耳にした僕は、こう思った。
「こんな私」を愛せた僕は、本当に幸せ者だった、と。
朝8時の海浜幕張駅に降り立った僕は、コンビニに立ち寄りながら、QVCマリンフィールドへ急ぐ。幕張メッセの横を過ぎたころ、iPodから流れてきたのはチャットモンチーの「風吹けば恋」と言う曲だった。
走り出した足が止まらない 行け!行け!あの人のところまで
誰にも奪われたくないんだ 風!風!背中を押してよ(引用:「風吹けば恋」/チャットモンチー)
普段そんなことは思わないのに、このサビを聴いた瞬間、そこはかとないシンパシーを感じた。あの人とはもちろんサブロー、そして今歩いているQVCマリンフィールドへの道は、東京湾からの海風が吹き抜ける道でもある。「あの人」のところまで急げ、自分。
と、歩道橋を下りると、そこには驚愕の光景が広がっていた。
なんじゃこの行列。近くに係員がいないから何の行列かもわからない。「引退グッズの列なのか?」と写真付きでツイートすると「それはレディースTシャツの配布列です」とリプライが返ってくる。知らずに15分ほど並んでしまった。
引退グッズの列はその奥に、何重にも折り返した長蛇の列として存在していた。
すれ違うファンのほとんどが背番号3をつけている。中にはボビー・バレンタイン監督就任で譲った背番号2、さらには入団当初の背番号36なんてファンもいる。球場外周では、サブローの代名詞とも言える打席入場曲、ゆずの「栄光の架橋」があらゆるところで延々リピートされている。
ここはまさに、夢にまで見たサブロー・ワンダーランドだった。
サブローにあやかって一部商品36%オフのグッズショップは会計の最後尾が階段を上った2Fのミュージアムにまで達し、ライト外野入場列も最後尾がどこかまったくわからないほどの長蛇の列。おかげで午前中はほとんど列に並ぶことしかしていない。球場周辺の引退記念パネルなど、ゆっくり見る暇などなく入場。
とにかく、こんな人の多いQVCマリンフィールドは初めてで、行きの夜行バスで熟睡できなかったこともあって試合の前からすっかり疲弊してしまった。しかしやはり、今日の主人公が目前に現れた瞬間は、そんな疲れなど一気に吹き飛んだ。
「4番、指名打者、サブローーーーーーーーー!」
谷保さんの独特のアナウンスがこだますると、とんでもない大歓声が僕の耳をつんざく。球場でロッテを応援し始めて10年が経つが、未だかつてこんな大歓声を生で体感したことがあっただろうか。それだけで鳥肌が立つ。あんな武者震いしたスタメン発表は、年に一度も経験できないだろう。
前日、細谷のサヨナラタイムリーでシーズン3位を確定させたロッテは、手首に不安のある打線の軸・デスパイネを休ませて5番に井上晴哉を据える。ちなみに井上の打席入場曲は「With you」、つまりサブローと並んでゆずメドレーが形成された訳だ。
主役の初打席は、2回の裏。
そのとき流れてきたのは、2小節めに「オー Let's go サブロー!」とシャウトした後「ラララ・・・」とだけ歌う、ものすごくシンプルなサブローの旧応援歌だった。ライトスタンドがどよめきを隠せないでいると、今度は ♪サブロー、さあ立ち上がれ今こそ・・・ と現応援歌が流れる。
僕はこのシンプルな旧応援歌が大好きだった。2010年だけ、大空キャンパスにして~、と歌詞を加えた改良版で歌っていたので、シンプルなこの歌詞で歌ったのは6,7年ぶりのことだった。旧新応援歌を交互に演奏したサブローの第1打席は、空振りの三振に終わる。
その後も「せーのっ!サーブロー!」コールなど、サブローに関するありとあらゆる応援が次々飛び出した。谷保さんの「サブローーーーーーー!」のコールもいつも以上に長いし、登場曲の「栄光の架橋」もいつもフェードアウトする「♪終わらないその旅へと~」の部分まで流れていた。
が、主役は第2打席も、第3打席も、オリックスバッテリーのストレート勝負に空振り三振に倒れる。やはり彼はもう限界なのだろうか。そんな2点ビハインドの9回表、伊東監督が動く。
「4番、レフト、サブローーーーー!」
サブローのラストイニング。この日レフトを守っていた細谷を下げ、1番にピッチャーの益田を入れてDHを解除し、サブローが外野にやってきた。丹念にセンターの加藤翔平とキャッチボールを繰り返す。
しかし、サブローがレフトを守ったのはほぼ晩年である。サブローの定位置は、どちらかと言えば僕らがいるライト。
このとき、ライトを守っていたのは角中だった。角中は元々、その日の外野の布陣によってレフトとライト両方で出場できる選手である。だから僕は「レフト・サブロー」の思惑をすぐに見抜いた。
おそらく、2アウトになったら角中と守備位置を入れ替えてサブローがライトにやってくる。
そして、この僕の読みはほぼ正解だった。しかし、2つだけ想定外なことがあった。
ひとつは、2アウトではなく1アウトになった瞬間、目の前にいた角中がレフトへ向け走り出し、レフトにいたサブローがこっちに来たこと。そしてもうひとつの想定外は、
ライトにやってきたサブローが、すでに涙をぬぐっていたこと。
僕は動揺した。だめだよ、まだ泣くなよサブロー、早いよサブロー、と叫んだ記憶がかすかにある。目の前でサブローが涙を流している。すでにその姿に嗚咽を漏らすファンもいる。伊東監督の演出のニクさに、ただただ感嘆するしかなかった。
この球場のライトは、サブローの指定席だった。10年前、両翼にベニーや李承燁・フランコという面々に挟まれてセンターで出場しても、必ず諸積や大塚がセンターに入ってサブローがライトに回り、終盤の守備固めとして大きく機能していた。それ以降、常にマリンのライトには、サブローがいた。
結局、ボールは飛んでこなかった。しかし、益田が最後の打者を抑え、指定席を離れたその瞬間、またも大歓声がサブローを包み込んだ。さあ、9回裏はサブローに最後の打席が回ってくる。「4番、ライト、サブロー」というお馴染みのコールが、もうすぐQVCマリンフィールドに響き渡る。
ああ、僕は、どうなってしまうのだろうか。
(後編へつづく)