この間雪で仕事が急に休みになって、ベッドで寝転がりながらTwitterを眺めてるとこんなツイートが目についた。
身近な人を亡くした人に「誰誰のためにしっかりしろ」みたいなことをいうのって、それを支えに生きろみたいな励ましの言葉なのかもしれないんだけど、いわれた人は今まさに叩きのされて自分が生きられない状態なのに、しっかりしろ(でもできないのに)っていわれて、辛いよね。
— えんてん (@oginatsu_enten) 2017年1月22日
あー、これ、わかるわ、と思った。
父親は59歳で亡くなった。世間一般では「若くして亡くなった」ともいえる年齢である。で、母親は父より年下。そして僕は一人息子、かつ26歳なのにやけに高校生と間違えられる風貌をしている。
これがどうなるかというと、父親の葬儀の際参列者に「お母さんを大事にしてあげてね」とよく言われた。中には明らかに僕を年相応と見ずに「大事にするんだよ」と言ったであろう人もいた。ちゃんと数えてはいないが10回は言われた感覚がある。
ちなみにうちの家系が先祖代々世話になってる寺のお坊さんも僕の年齢に対して誤解していたようで、父の葬儀告別式関連の法要がすべて終わった後
「これからお母さん大事にするんやで、ところで君いくつや?」
「26歳ですけど」
「えっ!?そうなんか、高校生や思たわ・・・」
とえらく腰を抜かして帰られた。
もちろん、お気遣いいただくことは大変ありがたいことだし本来言っちゃいけないことなのかもしれないけど、率直に言わせてもらうと「お母さんを大事にしてあげてね」と言われる度に「そんなことわかってるわ」という気持ちでいっぱいだった。
僕は一連の家族を大事にしなさい、という声かけについて、すべてにおいて語尾に(だからお前がしっかりしろよ)というニュアンスが隠されていると解釈して受け取っていた。ただでさえ父親が亡くなって狼狽しているのに、さらに母親も大事にって分かってるけどとても気が回らんわ、と思った*1。
なので、最初は「ええまあおっしゃる通りで」などと返していたが、あまりに言われすぎたので後半「それ言われるの○回目です」などという表現でやんわりと制止していた。今にして思えば狼狽してる状況下で「そんなことわかってるわい!!」などとよく大声を張り上げなかったな、とすら思う。
うちの家族にはうちなりのやり方がある。僕も母も結構互いを放任してるところがあってそれがうまいこと関係性を築いているもんだと思っているし、その関係性は正直父親が生きていたころから変わりはない。いきなり過干渉になるのもどうかと思うし、僕なりに母親を大事にはしている、つもりだ。
たぶん、子どものころに親とか大事な人を亡くした人って多かれ少なかれ「残された家族を大事にしろ(だからお前がしっかりしろよ)」と言われてるのだろうけど、その言葉が重荷になってることが結構あるのだと思う。僕も父親の葬式で痛感した。
だからこそ、「身体を大切に」だとか「落ち着いたら遊びに行くね」とか、葬式というシチュエーションでは悲しみや寂しさに寄り添った言葉がけが必要なのかもしれない。
そういえば、通夜のあと母親の長年の友人にして仕事の同僚が「落ち着いたらお母さんにバンバン仕事振るから、よろしくねー」と言って帰っていく後姿は半端なく頼もしかったし、こういう人に僕ら母子は助けられるのかもしれない、と思ったのだった*2。

ちょっとホコリがすごいけど、たぶん小学校の修学旅行で買ってきたやつ。
月末で父が亡くなって3か月である。