10年前の7月24日、僕はなぜか空の写真を撮っていた。
次の日が部活(写真部)だから、今週そんなに撮れ高ないしこの写真持っていくかー、というノリで撮ったのだろう。ベランダで布団を干しながら、構図や露出のことなんてなにひとつ考えずに買ってもらったばかりの一眼レフのシャッターを切った。
夕飯にわかめサラダがあったのも覚えている。そのときついてたテレビは、ナゴヤドームでの中日×阪神戦だった。
たぶん、その翌朝にこんな起こされ方をしていなければ、こんなこと逐一覚えてなかったと思う。

「じいさんが死んだ」。
忘れもしない10年前の7月25日の朝10時、祖母が僕の部屋のドアをノックもせず開けるなりこう言った。
当たり前のように寝ていた僕はまったく意味がわからなかった。
同居していた祖父は脳梗塞を患ってからは入退院を繰り返すようになり、家にいる時期でも毎日タクシーを呼んで近所の病院に通院していた。7月24日もいつものように朝タクシーで出掛けていって、夕飯もきちんと食していた。そしていつものように、21時には早々と自室で床についていた。
深夜、僕が寝ようと家の廊下に出たら、たしかに祖父の寝室からゲホンゲホンという声が聞こえた記憶があった。で、朝祖父が起きてこなかったそうだ。「イビキがうるさい」と寝室を隣の和室に移していた祖母ですら気づかなかった最期だった。死因は心筋梗塞。
このとき16歳、多感な時期だった僕は、葬式に出た経験こそあれど「前の日まで元気で生きていた家族が死んだ」という事実をどうにも受け容れられず、いわゆる死に顔というものを見ることができなかった。葬儀場の控室にも、祖父が棺に入るまで立ち入ることができないでいた。
ドアの向こうに、白い布で顔を隠して布団に寝かせられている祖父がいる。布団の合間からのぞく祖父の禿頭にひどく狼狽して、エレベーターホールのベンチに腰掛け長々と携帯電話で自分のブログを入力していたことを、よーく覚えている。結局出棺のときまで顔を見ることができなかった。

むかしブログに書いたが、祖父の将棋での口癖が「はぁー、そうきたかぁ」だった
もうひとりの祖父(父方)は生まれるずいぶん前に早逝しているので、僕にとって生きてる限り唯一の祖父が戦前から2000年代を生き抜いたこの人だった。たしか祖父にとっても同居する孫というのは僕だけだったはずなので、ずいぶんと甘やかされて育ってきた。
将棋、麻雀、電動歯ブラシの使い方を教えてくれたのは祖父だった。毎朝家の前に立って登校班に「いってらっしゃい!」と声をかけるのが日課で、夏休みには毎朝ラジオ体操にも出ていた。僕が学校に行きたくなかったときも、わざわざ職員室までついてきてくれたこともあった。
10年前、当たり前のようにあった「5人家族」は、祖父母も父もいなくなっていまや母と自分しか残っていない。振り返ってみれば祖父の死をきっかけに家族環境というのはすさまじく変化した。「当たり前」という日常は、なにひとつ当たり前じゃなかったと気付かせてくれた機会かもしれない。
「じいさんが死んだ」と慌てて僕の部屋をノックした祖母の声は、たぶん僕が死ぬまで忘れないと思う。