SH Diary.

旅行記、ときどき野球。

日本史の教科書でよく見る京都めぐり・前編

2021年度、それまでの1校に加えてもう1校新たに非常勤講師として勤務校が増えることになり、その学校では日本史を受け持つことになった。実はそれまでは世界史か地理しか教科担任をやったことがなく、教員4年目にしてはじめての日本史である。

日本史の教科書において、とくに平安~江戸時代末期にかけて京都という街は幾度となく舞台として登場する。そして自分はそんな舞台、京都で暮らしている。これを授業で利用しない手はない。

教科書の小さな写真を見るよりも、でっかく印刷して黒板に貼ったほうがインパクト強いよなと思い、「日本史の教科書でよく見る」寺社仏閣をメインにいろいろと巡ることにした。結論から書けば、これがとても面白かったのだ。
 

京都駅前→金閣寺

京都駅で市バス1日乗車券を買い、西大路通り方面に向かう205番のバスに乗ったのが昼の12時半。これに乗った、ということは行き先はもうあそこしかない。

室町幕府第3代将軍・足利義満が建てた金閣寺。正確には鹿苑寺金閣と言うべきか。実は都合30年弱京都に住んでいながら、金閣寺は行った記憶がない。

入場料を納めると御札をいただいた。この御札、足利義政が建てた慈照寺銀閣銀閣寺)でも入場料を納めるといただけるもので、たまたま前の年末に銀閣寺に行っていたので期せずして御札が2枚揃うことになった。これは大事に自宅に飾っている。

しかし歩いているだけで『My Favorite Things』と長塚京三のナレーション*1が頭のなかをリフレインするのはなんなんだろう。JR東海のイメージ戦略にしてやられている感がある。

春の割に結構暑く、金閣寺の駐車場で思わずソフトクリームを買った。

あと金閣寺の駐車場といえば「水曜どうでしょう」の原付西日本縦断のスタート地点。ここで京都ロケだと聞かされてた大泉さん扮する若旦那が、ミスターに「カブの旅」を告げられて鹿児島まで延々と原付カブで走る羽目になったわけだ。
 

金閣寺道→北野天満宮

次に向かう途中にあるので、北野天満宮に立ち寄る。

この日は4月1日、つまり2021年度の最初の日だったので、これもなにかのご縁だと絵馬を奉納した。そういえば絵馬を奉納するのもはじめてだな。

で、実は次の目的地がこのあたり。北野天満宮前にあった滋賀銀行の支店名、この「西陣」という地名に大きなヒントが隠されている。
 

上七軒→堀川今出川

西陣」の地名を追ううちに、北野天満宮前から1つ先の上七軒のバス停まで来てしまった。このまま次の目的地へ歩いていこうかと思ったがそれにはやや遠く、しかも意外と時間がかつかつなのでちょうどやってきたバスに乗る。

堀川今出川のバス停から少し北へ行くと、こんな碑がある。

そもそもこのあたりの「西陣」と言う地名は、応仁の乱西軍の地が置かれたことに由来している。話せば長くなる足利家の跡継ぎ問題から端を発した応仁の乱は、細川方の東軍、山名方の西軍にわかれて10年以上も戦乱が続き、京都の街はそこかしこ焼け野原になった。

その西軍を率いた山名宗全山名持豊)の家があったのがまさにこの場所である。

山名宗全邸址」の碑があるのはなんとタワーマンションの一角で、そこから100mくらい西には跡地の説明看板が置かれている。

このあたりで織物が盛んだったので、「西陣織」というわけですね。

西陣織会館のすぐ南には晴明神社があるのでこちらも参拝。
 

一条戻橋・晴明神社前→堀川御池→堺町御池

本来ならばこのあとは堀川通りを南下して二条城へ行く予定だった。のだが、バスに乗った時点で二条城前は通るが開門時間には間に合わないことが判明。急遽予定を変え、二条城前のひとつ先の堀川御池でバスを乗り継ぐ。

やってきたのは本能寺。ご存知、「敵は本能寺にあり」、織田信長最期の場面・本能寺の変の舞台である。しかし厳密に言えば本能寺は移転して現在の河原町御池の南西にあり、本能寺の変はここではなくいまの堀川高校の裏手あたりに所在していた時に起こった事件となる。

堀川高校の裏手あたりはよく所用で通るので、今回はスルーした。この写真は別の日に撮ったものである。

ちなみにここ本能寺も、水曜どうでしょう「試験に出る日本史」で登場した場所。大泉さん扮する校長、そして学ラン姿のミスターとヤスケンが立っていた寺町通り側にある本能寺の門の前は、いまもたいしてその風景が変わっていない。

いつの間にか「水曜どうでしょう」のロケ地巡りになり始めているが、話を日本史に戻そう。

本能寺の変」に限らずこのお寺はたびたび火災に見舞われていた。それもあり、「匕」が2つ重なる「能」の字をあえて避けて、この漢字を用いた表記が境内では使用されている。見た限り「能」の字を使っているものはひとつもなかった。

途中出した「本能寺跡」の碑にも、「能」の字が使われていないことがわかる。
 

河原町三条→平安神宮

丸亀製麺を通りがかったら毎月1日の釜揚げうどんの日だということに気が付き、夕方なのに昼をまだ食べていなかったのでサクッとうどんをすすり、今度は徒歩で平安神宮方面へ。

途中の三条通り沿いには、坂本龍馬と妻・お龍の結婚式場跡、なんていうものもある。

平安神宮は実は日本史の教科書にはほとんどでてこない。ではなんでここに来たかといえば、

ヒノアラシのマンホールを拝むため。ポケモンの中で1番ヒノアラシが好きなのだ。
 

京都会館美術館前→清水道

さてもうすっかり夕暮れが迫っている。日没すれば資料写真も撮れないしそもそも施設自体が閉まってしまうこともある。一気に南下して清水寺方面へ急ぐ。

と言ってもここでの目的は清水寺ではない。バスを降りて清水寺とは逆方向の住宅街へ分け入ると、鎌倉幕府のころにこのあたりに置かれていた「六波羅探題」の石碑が残っている。これが目的だったのだが、いくら探しても見つからない。

理由は、これだった。

六波羅探題跡の石碑は、踊り念仏が口から飛び出している空也上人像で有名な六波羅蜜寺の境内にあった。しかし案の定というかなんというか、17時半ではさすがに寺は閉門しており、中に立ち入ることはできず。

この瞬間、二条城もあわせて近いうちに第2弾をやることが確定した。とはいえこの六波羅蜜寺、第2弾で「行ってよかったーーー!!!」と感動する出来事があったのだが、これは後編でじっくりと書こうと思う。

ここまで来たので東山通りを越え、東山の五重塔へ。と、ちょうどいい感じに日が沈み始めた。

これぞ京都の夕暮れ。この日の京都巡りは以上にして、京都駅が混み合ってそうだったので迂回して東福寺駅から帰宅したのだが、東福寺駅でものすごい腹痛に襲われた上、駆け込んだお手洗いでトイレットペーパーが無くなりはじめて「レバーで補充する」作業をしたのはまた別の話である。

後編はこちら↓

*1:いまは柄本佑に変わったんですね