SH Diary.

旅行記、ときどき野球。

日本史の教科書でよく見る京都めぐり・後編

前編はこちら↓

前編終了後、あらためて教科書の内容を整理しつつ授業構成を考えていたら、前編で撮りそびれた「六波羅探題」「二条城」(大政奉還)以外にもちょこちょこ資料として写真がほしい場所が出てきた。というわけで前編の1週間後、再び京都駅から1日乗車券片手に市バスに乗り込む。
 

京都駅前→立命館大学前→竜安寺

そういえば「立命館大学前」行きのバスなんて山ほど乗ったことがあるが、それで終点の立命館大学まで行ったのは初めてな気がする。立命館の他キャンパス、びわこくさつキャンパスと大阪いばらきキャンパスには仕事で行ったことがあるが、ここ衣笠キャンパスももちろん初めて。

とはいえ、今回は立命館大学にはなんの用もない。立命館大学前であとから来たバスに乗り1区間、次のバス停で降りる。

そこは龍安寺の前、と来ればキーワードは「石庭」である。龍安寺もはじめて来たが、なんか見覚えのある参道だなあと思っていたら数日前にプレイしていた「GeoGuessr」でたまたまこの場所が出てきてたせいだ。

室町時代の庭園文化のひとつ「枯山水」は、言葉の中に「水」「枯」の2文字があることがすべてを示すように、水を使わずに表現された庭園である。白砂が波を打っているかのように見えるこれこそが水を表現したものであり、見る側はイメージを膨らませて鑑賞することになる。

この石庭を眺めている間、相変わらず脳内では「My Favorite Things」のメロディがずっとずっとリフレインしている。
 

竜安寺前→御室仁和寺

立命館大学のあたりからつづく「きぬかけの路」をさらに進み、仁和寺までやってきた。ちょうど御室桜のシーズンだったので境内が賑わっていたが、今回は時間の関係上仁王門だけ見て次へ向かう。
 

御室仁和寺→二条城前

今回はきちんと開門時間に来れた二条城。ここは小学校の遠足の班行動のときや、大学時代に京都に来た友人を案内するのに何度も来ている場所であるが、久しぶりに入場すると拝観料が1000円を越えていてビックリした。学生料金で入っていたせいか?いやでも昔はもっと安かったよね?

と思いつつ、ここはやはり二の丸御殿に入場しないと意味がないのでPayPayで支払って入場する。

二の丸御殿内部は撮影NGなので写真には残せないが、江戸時代が終わりを告げた大政奉還が行われた部屋は実際に大政奉還の様子を人形で再現していて、これがものすごい迫力があり思わず見入ってしまった。ところがやっぱり前に来たときもこんな展示になっていたのかが記憶にない。

鶯張りの廊下の音も心地よく(これは以前から記憶にある)、まるで迷路のような二条城二の丸御殿をたっぷりと堪能。

ここ二条城の庭園には池があり、さっき龍安寺で見た枯山水とは一線を画している。そもそも水の有無でこんなにも風景が一変するとは。ひとくちに「庭園」と言っても多種多様なのがおもしろいところである。
 

二条城前→馬町

つづいて前回時間切れでほとんど回ることができなかった東山方面を目指す。もちろん六波羅探題の跡地も六波羅蜜寺で見るわけだが、その前にひとつ、日本史を揺るがす大事件があったきっかけの寺がこの近辺にある。

京都国立博物館の裏手にあるこの方広寺は、正直な話まず京都観光をする上でなかなか出てこない寺だと思う。ここにはかつて東大寺の大仏を上回る大きさの大仏が安置されていたのだが、それも度重なる火災でいまはもう大仏自体が現存していない。

しかしこの方広寺、前述したように「日本史を揺るがす大事件」のきっかけとなった場所である。

方広寺鐘銘事件」と書けば、ピンと来る人もいるはずだ。

豊臣秀頼徳川家康のすすめで地震で損壊した方広寺大仏を再建した際、家康は方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」と「君臣豊楽」の言葉に激怒した。「国」、要するに「家康」の字を分断し、「豊臣主としてしむ」とはどういうことだ、というわけだ。

豊臣家の財力に恐れをなした家康のこの難癖は、最終的にはかの「大坂冬の陣」につながり、しまいには豊臣家の滅亡という結末を迎えることになる。つまりひとつの鐘が豊臣家滅亡の引き金を引くことになったわけだが、この鐘がいまでも方広寺に現存している。

白く刻まれているのが家康が激怒したとされる「国家安康」と「君臣豊楽」の部分。様々な研究や専門家による推測があるようだが、家康はこの鐘一面に刻まれた四字熟語のなかからあの8文字を見つけ出して難癖をつけたわけで、ただのイチャモンじゃないかこんなの、と思わざるを得ない。

たまたま「京の冬の旅」というキャンペーンの最中で、拝観料を納めると境内からこの鐘までこちらが何も言っていないのにガイドがついてめちゃくちゃ細かく解説していただき、非常に勉強になった。

方広寺をあとにしてそのまま北上し、いよいよ前回行けなかった六波羅蜜寺。今日はもちろん門が開いている。

此付近 六波羅探題」とはっきり刻まれた石碑は、境内にあった。

ところで、寺の拝観料が必要だと思って受付でお金を支払ったら出てきたのは宝物館のチケットだった。どうやら拝観料はいらなかったらしい。今回は六波羅探題の石碑を眺めたらそれでよかったのだが、せっかく支払っているので宝物館に入る。

そしたらこの宝物館、これまた日本史の教科書ではだいたい出てくる空也上人立像が収蔵されていることをすっかり忘れていた。空也が「南無阿弥陀仏」と唱えると口から小さな小さな仏様、すなわち踊り念仏が「南無阿弥陀仏」の文字の数・6体出てきたという逸話を表現した、あの仏像である。

空也の表情、そして細かく表現されている6体の踊り念仏の構造を、しげしげと注意深く観察していた。鎌倉時代に作られたとは思えない技術である。これだけの時間が経過したら1体くらいポキッと踊り念仏が折れてしまってもおかしくない。令和のこの時代に残っているのはもはや奇跡だろう。

運慶坐像とにらめっこしてみたり、伝平清盛坐像の迫力にも圧倒されたり、まったく入る予定はなかったが入ってよかった。しかも宝物館にいる間は誰も入ってこなかったので、数多の仏像を独り占めである。ここまで贅沢なことはない。

宝物館を出ると日が暮れ始めていた。予定していた場所はすべて回れたので、ここで終了。

ちなみにこのあと、なぜかiPhoneのカメラロールには京都駅ではなく祇園でバスを降りている写真が残っていたのだが、なぜ祇園に行ったのか、そもそもなんでこんな写真を撮ったのか、もうまったく覚えていない。この話は2021年4月の話である。

結局この年の日本史の授業は、その後も折に触れて資料写真を用意した結果印刷が面倒になり、板書を止めて1年間スライドを見せる形式で完走した。それこそ前の秋に行った鎌倉の写真も使えた上、やはり教科書よりも大きな写真を見せるとインパクトは抜群だった。

そんなこともあり、これ以降旅行のテーマが「授業写真を撮りに行く旅」という方向にシフトすることになる(例えばこれこれ)。しかも2022年度は日本史を外れ、より現地調査が重要な地理専任になったので、余計に「あ、ここ行けばこの写真撮れるな」という視点で旅先を決めるようになった。

いま思い返せば「授業写真を撮りに行く」という重要性に気づいた原点は、この地元・京都めぐりだったのかもしれない。