SH Diary.

かつて不登校だったひとが野球や遠出、日常とたまにちょっとまじめなことを書いてます。

「静岡市はいいねぇ。」が、偉大すぎて。―追悼・さくらももこ先生

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静岡の街が好きだ。

市街地がコンパクトにまとまっているところ、清水の駅前にある市場の海鮮丼、静岡朝日テレビの「ピエール瀧のしょんないTV」という深夜番組、そしてなにより「さわやか」のげんこつハンバーグ、静岡の好きなところをあげればキリがない。でも、そのすべてに繋がっているのが、まちがいなく上の写真だ。

静岡駅に降り立って、市街地側の北口に出ると、頭上にずらっと横断幕がぶら下がっている。そこには、あのほのぼのとしたイラストと字体で「静岡市はいいねぇ。」としたためられている。ひと目見てさくらももこ先生の作であることに気づかない人は、(名前書いてあるけど)そういないだろう。

僕はこの横断幕が大好きだ。たまらなく好きだ。

長い時間かけて移動して、ようやく静岡に着いたという実感がこの横断幕を見上げるとじわじわこみ上げる。なぜかこの瞬間、毎度「ほっ」とするのだ。イラストなのか字体なのか、ほかの街を訪れても感じないじんわりとした、そして不思議な心の温かさを、いつも静岡駅で感じていた。

あー、静岡に来たなー、とりあえず紺屋町のほうへ向かおうか、それとも久々に駿府城公園のほうへ行こうか、いややっぱり新静岡セノバの「さわやか」がどれくらい混んでるか調べておこうか、今日は富士山見えるかな、などと考えるのはいつもこの横断幕の下。

僕の静岡滞在の入り口には、必ずこのさくら先生のイラストと「静岡市はいいねぇ。」の文字があった。

ただただアーケードを歩いていても、松坂屋やパルコを冷やかしていても、なんなら「静岡科学館る・く・る*1や「静岡音楽館AOI*2のポスターや看板が目に入った瞬間でさえも、「静岡市はいいねぇ。」と思う。それくらい、句点を含めたこの9文字の偉大さは凄まじい。

さくら先生の「静岡市はいいねぇ。」の文字がもしなかったなら、僕は静岡という街をここまで気に入ってただろうか。きっと、ここまで静岡という街に愛着を持つことはなかっただろう。

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そんなさくらももこ先生の訃報に接した。

小学校を卒業した春、はじめてひとりで新幹線に乗ったときのお供はペプシコーラと『ちびまる子ちゃん』の総集編だった。その旅の途中、なぜか横浜駅のキオスクで『ちびまる子ちゃん』の新刊を買って、それが帰りの新幹線のお供になった。『ちびまる子ちゃん』には、そういう思い出もある。

エッセイも好きだった。大学時代、ひとりで2時間もある授業の空き時間をつぶすには、図書館で本を読むのがいちばん手っ取り早い。そんなときによく『もものかんづめ」や『さるのこしかけ』など、朴訥とした、そしてサクッと手軽に読めるさくら先生のエッセイを読んだ。きっとあのときほとんど読破したと思う。

友蔵が実はさくら先生の「理想のおじいちゃん」像であって、本物の友蔵じいさんは「お葬式で死に顔を見て姉が爆笑する」ほどに最低最悪な人物だったことも知っていた。しかしそんなある種「悪口」とも言える文章でも、どういうわけかたいして毒気を感じることがなかった。好きな文章だった。

べつに毎週ちびまる子ちゃんを観ているわけでもない。しかし、こうして訃報に接してみると、生活の一部にさくら先生があったんだなあ、とか思う。それゆえに、久しぶりに衝撃的な訃報だった。そして、なんだか急に静岡に行きたくなったのだった。何をしに行くわけでもないんだけど。

それにしても、あれだけ大好きだった西城秀樹をなにもそんなにさっさと追いかけなくてもいいのに、さくら先生。いま僕の頭の中では「♪交差点で100円拾ったよ~」と、ヒデキの歌声が延々とぐるんぐるんしている。

*1:ここすごく行ってみたいんだけど大人ひとりではちょっと行きにくい

*2:最初そういう博物館だと思って入ろうとしたら立派なコンサートホールだったときの衝撃は忘れられない