SH Diary.

旅行記、ときどき野球。

「伊藤義弘」という中継ぎエースのこと。

土曜日、朝早くから電車を乗り継いで甲子園球場に向かった。

目的は、プロ野球12球団合同トライアウト

先日引退試合を観戦したサブローのように、引退のその瞬間に華々しく見送られる選手なんてほんの一握りしかいない。毎年10月1日から始まる戦力外通告期間に、スーツ姿で球団事務所に呼び出され「はいお疲れさん」と肩を叩かれる選手の方が、ずっとずっと多い。

もちろん、そこでスパッと引退を決断する選手もいる。しかし、まだまだ現役を諦められずにどこかのチームで野球を続けたいと考える選手もいる。そんな選手を集めて実戦形式でプレイを見せる場を作って、12球団はもちろん独立リーグのチームにアピールできる大きなチャンスがトライアウトである。

年末、東山紀之がナレーションを務めるあの番組ですっかり脚光を浴びるようになったこのトライアウト。開門時、久々に死の恐怖を感じるくらい人に押しつぶされ、こんな人集まるもんなの?とビックリしていたらなんと1万2000人*1来ていたらしい。

そんなこともあって、本来明日の契約を勝ち取るためのもの、選手にとってみれば自分や家族の生活を賭けた場にも関わらずそれを見せ物にするのはどうなの?という批判も少なからずあったらしいのだが、僕にはどうしても、どうしても最後の勇姿を観たい選手がひとりいた。

彼の名は、伊藤義弘

藤田宗一戦力外通告を受けた上、薮田安彦小林雅英が揃ってメジャーへ移籍し、千葉ロッテマリーンズの中継ぎ勝ちパターン「YFK」がよりによって3人同時にチームを去った2007年のドラフトで指名され、元祖「幕張の防波堤」・小林雅英の代名詞だった背番号「30」を引き継いだ投手である。

そんなチーム事情もあってルーキーイヤーから中継ぎの1枠として欠かせない存在に成長し、毎年50試合以上投げる「中継ぎエース」としての地位を確立していった。そして2010年、「史上最大の下剋上」と謳われたあの日本一の瞬間、彼はナゴヤドームのマウンド上で両腕を突き上げてもみくちゃにされていた。

あのシーズン、絶対的な抑えは小林宏之だった。伊藤は勝ちパターンとして9回の小林宏之にバトンを渡す役割を担うのがほとんどだった。ところがシーズン終盤になって小林宏之がやたら打ち込まれ、結局シーズン最後の試合でギリギリ3位を決めた瞬間抑えとしてマウンドに立っていたのは小林宏之ではなく伊藤だった。

そして日本シリーズ第7戦、抑えれば日本一という場面で登板した小林宏之が、中日のブランコに痛恨の同点犠牲フライを打ち上げられるも、もつれた延長12回に岡田が右中間を深々と破る決勝三塁打を放つ。結果、その前のイニングから登板していた伊藤に、今度は「日本一の胴上げ投手」という大役が回ってきた。

僕はそれが、なんだかすごく嬉しかった。

いや、小林宏之が嫌いなわけではない。ただ、シーズン通して勝利の方程式の一角を担い、あまり陽の目を浴びることなくコツコツとホールドポイントを貯め続けてきた男に、最後の最後でこうしてスポットライトが当たったことが、ものすごく嬉しかった。

しかしこれ以降、伊藤は苦境に立たされる。


2008年(ルーキーイヤー)、試合前にランニングする伊藤。

翌年の日本ハム戦、陽岱鋼を内野フライに打ち取った瞬間、折れたバットが伊藤の足を直撃する。あまりの痛がりっぷりに担架にも乗せられず、球団スタッフと当時の一塁手・カスティーヨ、捕手・田中雅彦に抱えられて退場する彼のユニフォームにはおびただしい量の血がべっとりついていた*2

そこから右肩やひじを次々故障し、「ピッチャー伊藤」のコールがなかなか聞けない日が続く。そしてついに今年、伊藤は1度も1軍に顔を出すことができずに終わり、戦力外通告を受けることとなってしまった。

僕は待っていた。キレキレのシュートとスライダーで打者を打ち取る姿がまた観たかった。そりゃもちろんマウンドで両手を突き上げる背番号30の姿も観たかったが、こつこつとホールドを積み重ねる姿も諦められなくて、いつも「プロスピ」では益田や大谷など他の中継ぎがいても8回には伊藤を使っていた。

背番号30の「Y.ITOH」*3が躍動する姿をまた観たい、と思っていたのに、それも叶わなくなるなんて。

そんな折、伊藤が「自分みたいな選手は引退試合がなく、家族も投げてる姿を見たいと言うのでトライアウトで投げる。そこで運よくオファーがあれば現役を続ける」ことを言っていたと、何球も彼の球を捕り続けた里崎がラジオで話していた情報をキャッチした。

折しも今年のトライアウトの開催球場は甲子園。十分観に行ける。これは行くしかない。

朝8時半の甲子園球場前。何やら人だかりができていると思ったら、トライアウト参加選手の出待ちだった。

誰が既に球場入りしているのかもわからない。でもひょっとしたらロッテの選手が通るかもしれない、と出待ち行列にいた観戦仲間と待機していると、あの柔和な顔をした伊藤が目の前を通り過ぎた。僕は思わずドキッとした。

伊藤ちゃん!伊藤ちゃん!がんばって伊藤ちゃん!

僕は彼のことを、敬意をこめて「伊藤ちゃん」と呼んでいた。風貌なのか性格なのか、どういう訳か彼には「伊藤ちゃん」とちゃん付けで呼びたくなるような、そういう不思議な魅力があった。それは他のファンも同じらしく、僕の周りには結構「伊藤ちゃん」と親しみを込めて呼ぶファンが多かった。

で、その球場入りする瞬間、あまりにみんなが「伊藤ちゃん!」「伊藤ちゃん!」と言うもんだから、伊藤は少し苦笑したように見えた。仲間内でも「誰もさん付けとか呼び捨てじゃなかったね」と苦笑いするほどだった。でも僕はそれくらい、彼の「ロッテ最後の勇姿」が観たかった。

「ピッチャー、伊藤義弘 千葉ロッテマリーンズ

伊藤の出番はトライアウトの序盤にやってきた。

トライアウトでは、投手は1人につき打者3人と対戦する。伊藤が対戦したのは楽天後藤光尊DeNA内村賢介と1軍実績もある2名と、よりによって同僚・ロッテの青松慶侑だった。投手は抑えなきゃ道は開けないし打者は打てなきゃ道は開けない。伊藤ちゃんと青松どっち応援したらええんや、と思わず頭を抱える。

しかし、伊藤はそれでも伊藤だった。

直球の最速は143km/h、内村こそヒットを打たれたものの後藤と青松は打ち取ったし(青松なんて完全に詰まらせたショートゴロだった)、全盛期までは厳しくてもここ最近の故障続きから考えれば十分な投球内容だった。どこかに拾われたらもう一花咲かせられるかもしれない。そんな確信も少しある。

登板を終え最大級の拍手を送りながら、伊藤ちゃん良かったですねぇ、という感想で観戦仲間と一致した。

果たして本当に「運よく」オファーはあるのだろうか。それともこれが最後のマウンドになってしまうのか。

この日のスタンドには、ロッテの背番号30のユニフォームを着たファンが結構いた。こつこつと信頼と登板を積み重ねる、いわゆる「縁の下の力持ち」のようなポジションであることが多かったが、間違いなく伊藤はロッテファンに愛された男だった。僕もそんな姿に魅了されたひとりだった。

最後にロッテの背番号30のユニフォームを着て投げる姿を観られてよかった。この日の投球と、6年前の秋にナゴヤドームのマウンドの中心で拳を突き上げた姿は絶対に忘れない。たとえこれで引退だとしても、僕はこれからもプロスピで全般の信頼を寄せて8回に「伊藤義弘」の名をコールし続けるだろう。

この先の人生に幸多からんことを。ありがとう、伊藤ちゃん。

*1:案の定トライアウト史上最多観客数とのこと。下手なプロ野球公式戦より客入りが良かったりする

*2:Youtubeに映像が残ってますが閲覧注意

*3:伊東勤監督就任後は背ネームが「ITOH」から変更になった